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仏教には、大きくわけますと、自力と他力の教えがあります。
座禅など自分の力で修行をして悟りを開こうとする禅宗系の教えは自力で、仏教は基本的には自力の教えです。
自力で修行するといっても、能力や環境など、様々な問題もあり、そう簡単に修行できるものではありませんので、仏(絶対者)の力を借りて救われようとします。
そのような考え方が、浄土宗や浄土真宗に代表される他力の教えで、その根底にありますのは、阿弥陀仏の信仰です。
阿弥陀は仏になる前の修行中の段階で、四十八の誓いを立てます。その誓いを“本願”と呼ぶのですが、阿弥陀仏に救済を願い、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者は(“南無”は帰依するの意)極楽浄土に救いとってやるということです。
他力の信仰は阿弥陀仏の本願にもとづいていますので、「他力本願」といいます。
「他力本願」の教えでは、戒律を守ったり、座禅をしたりするむずかしい自力の修行はいらないとされていますので、「信心の仏教」といわれています。
座禅はお釈迦様がこの世の悩み苦しみを越える修行法として示されたもので座禅によって悟りを開かれました。
座禅はストレスの多い現代には、心を救う方法として効果があり、それは近代の医学においても実証されているそうです。
一般的に「どくだんじょう」といっていますが、これは全くの誤りで、ひとりで思うままに振舞う所、ひとり舞台の意味なら『どくせんじょう』です。
文字をよくご覧ください、『擅』は漢音で「せん」と読み、「ほしいまま」もしくは、「ほしいままにする」という意味があり、これを「だん」と読んだのは、「壇」と文字を取り違えたからなのです。
「壇」はご存知のとおり祭壇の壇で、これは土を盛り上げた高い祭場、一段と高い所という意味です。
祭壇の「壇」という字がどうして「土へん」なのか、これでお判りですね。
要するに「どくだんじょう」は、文字誤りをした、有り得ない俗語なのです。