メニュー
公開日:
文殊菩薩はサンスクリット名を“マンジュシュリー”といい、「妙徳」「妙吉祥」といった意訳名もあります。
「三人寄れば文殊の智慧」といいますが、その智慧の象徴のお経本を持っています。 仏様の智慧とは「無分別」で、私たちの生活では,分別のある人が良い人で、無分別な人が困った人と 言いますが、仏様の世界では、分別しないのが良いとされています。
(かわら版VOL.19に記載)
https://www.bell-shotan.co.jp/column/2533/#main
つまり物差しは一つではなく、たくさんの物差しがあって、すべてのものに価値があり、この世につまらないものは一つもなく、全部が尊いということです。「つまらぬと、言うは小さき、智慧袋」という、ことわざもあります。どうして剣を持っているのかといいますと、智慧を磨いて光らそうとするのを、妨げる我欲が心の中にあります。欲望のエネルギーは大切で、前進し、人のためにつくすにはエネルギーが必要です。でもそのエネルギーが時々あらぬ方向に向きかけることがあります。その時、軌道修正するのが、手に持っている剣です。私達は迷いの多い生活を送っています。なかなか完成された暮らしにはなっていません。でもそれでいいのです。
大切なことは、修正する剣を常に持っていることではないでしょうか。
諸説ありますが、「仏の顔も三度撫(なず)れば腹を立つ」を省略したことばであるといわれています。つまり、三度「なでる」ことですが、仏様は拝むもので、顔をツルツルなでることは、失礼になります。
ましてや、三度もなでられては、「いかに温厚な仏様といえども怒り出す。」という意味です。人間の努力や忍耐に限度のあることを教えた言葉であるといえます。
なお、「仏の顔」を「地蔵の頭」という言い方もあるそうです。