《香の歴史》
2024.08.08
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一般的にあまりいい意味使われない言葉で、進退きわまり、どうにも困った様を「往生する」とか、土壇場でのあきらめの悪さを「往生際(ぎわ)が悪い」などいいます。
「往生」とは、正確には「極楽往生」「浄土往生」といいます。私達が死後、阿弥陀仏の浄土(仏国土)である極楽世界に往(ゆ)き生まれることです。したがって、往生は死後のもので、人が死ぬことを「往生」と呼ぶようになりました〔故人の“生前中”などというのはこのためです!〕浄土教では、「臨終の一念」といって、正しい信仰をもって死の瞬間に臨(のぞ)むことが、大切だと教えられています。ですから、臨終の場にあって、正しい信仰を持てないことを、「往生際が悪い」といいます。
賽の河原は三途の川にあって、地獄の鬼が出没し、子供をいじめるところです。
仏教では、子供の死は逆縁といって、遺された親を悲しませるので、罪が重いとされています。
大人の悪業は、いきなり地獄に堕とされますが、子供は、生命の長さからいってそんなに悪業を積んだとも考えられないので、賽の河原で責められるのです。河原の石を積み上げて、仏や親の供養をするのですが、鬼がやってきては、鉄棒でその石塔を崩します。しかし、地蔵菩薩が現れて、鬼を追い払い、一緒に石塔作りを手伝います。
地蔵とは、大地のもつ豊かな生命力から考えられました。
草花の種は大地にあって命を与えられ開花します。つまり、すべての人々をこなく救う力があるとされています。
そのことを、地蔵と呼び、菩薩として敬うよになりました。