《自力と他力》
2024.09.26
公開日:
最終更新日:
「安心」は、一般には「あんしん」と発音されますが、仏教語では「あんじん」と濁って読みます。心が安らかになり、動揺しない境地に達するのが「安心」(あんじん)です。
とくに浄土宗・浄土真宗においては、阿弥陀仏の本願によって必ず極楽往生するという確信を得ることを、「安心決定」(あんじんけつじょう)といって大事にしています。
とすれば、仏教においてはそう簡単に「安心」(あんじん)できません。生命保険をかけて安心するなど、日常語の安心とはだいぶ違っていますね。
キリスト教は、ある意味において「愛の宗教」です。
しかし、仏教では「愛」は否定されています、仏教においては「愛してはならない」と教えられています。
もっとも、その場合の「愛」という言葉の意味は違っています。仏教的な「愛」は第一に自己愛です、親が子を愛するとき、子を自分の所有物と見ている気持ちがあり、恋人に対しても、愛は相手を束縛する。自分の思う通りにならなければ、相手を憎しみはじめます。相手を愛しているいるようでいて、本質的には自分を愛しているのです。
第二に、愛は愛する対象に向かって執着をおこします。この病的な愛を、仏教では「渇愛」(かつあい)と呼んでいます。
第三に、愛は憎しみと背中合わせだということです。
そのような理由で、仏教は「愛」を否定いたします。しかし、それは言葉の上での問題で、仏教がキリスト教で言っているような意味での愛(現代日本語の「愛」の意味)までも否定しているのではありません。仏教では、そのような、現代語的な愛を「愛」とは呼ばずに「慈悲」(じひ)と呼んでいます。だから、仏教は慈悲の宗教と言われています。